ボランティアストーリー:2013年10月16日石森恵美
身長180cm、体重73㎏。
健康でめったに風邪をひくこともなかった夫が57歳、初めて入院したのは、2010年5月。その3日後にすい臓がんの告知を受けた。
夫にとって初めてのともいえる病気はすい臓がん、それもステージ4b。
あまりの驚きに涙も出ず、医師に「助けてください」と繰り返した私。
「月単位で考えてください」と若い医師が言っているのは確かに聞こえていたのに、なんと間抜けなことを言っていたのだろう。
そしてその1週間後、夫の姉(私にとっては義姉)にも、同じ病院の別の医師からすい臓がんの告知がなされた。
義姉は独身、透析患者で内臓疾患の障碍者1級。家族は年老いた母親。父親はすでに他界している。義姉をたった一人ですい臓がんと闘わせることはできないと思った。夫と義姉は私が看よう。
夫と私には当時、中学3年と中学1年の二人の息子がいた。中3の長男は当然、高校受験を控えている年だった。
夫は、息子たちにも、また友人にも職場にも、親戚にも自分の病気を伝えることを拒んだ。
のち、たくさんの人たちに「生前、病気のことを知らせてほしかった」と言われたが、私は「誰にも伝えたくない」夫の気持ちがよくわかり、その気持ちを大切にしてやりたかった。
当時、抗がん剤は2剤しか認可されておらず(夫の死から1年後3剤になったことは朗報である)、そのうちの1剤、ジェムザールの投与が始まったが、がんの進行は早く、夫はどんどん悪くなる一方だった。
「食欲がない」以前の「食べ物を受け付けない」状態。
食べていないのに「嘔吐」「下痢」を繰り返し、発熱が続く。高カロリー点滴を鎖骨の部分から入れるも、腹水が溜まる。
20㎏以上も痩せ、何をすることもできず告知から5か月後に、夫は逝ってしまった。
二人の息子には、がんという言葉は使わなかったものの、亡くなる10日前に夫自身が話をした。「お父さんにとって自慢の息子だ」と。
そして意識が混濁する前に私が、がんであることと、命が限られてしまったことを話した。
当たり前だが、義姉のすい臓がんも確実に進行していた。
夫が亡くなって半年後、夫と同じように苦しみ義姉も逝ってしまった。
残されたのは、認知症が少しずつ進み始めた義母。昭和元年生まれの彼女はとてもドライな姑で、私は子育てにおいても、仕事をすることにおいても、また嫁という立場においても助けられた。
その義母の様子がいつもと違うことに気づき精密検査を受けたところ、義母もまた膵臓癌であるという。
治療も手術もしないことを選択したためにすぐに退院。「サービス付き高齢者向け住宅」への入居を決め引っ越す際、その施設と連携している開業医が「遺伝性膵臓がん」のことを教えてくれた。
驚き、怖くなり、でも納得もした。
家族の誰かが、癌になり、そしてその日を迎える。
悲しみ、寂しさ、驚き、後悔、切なさ・・・たくさんの感情が交錯することは間違いない。
医師や看護師に対する言いようのない気持ちも然り。言い始めればきりがない。
でも、これからの膵臓癌と闘う私たちに必要なことは
「家族性膵癌登録制度」が確実に誠意あるかたちで構築されることではないかと思っている。「登録制度」「遺伝性膵臓癌」に関しては、もっともっと医師や看護師に理解を深め研鑽を積んでいただきたい。
そして、「早期発見」が「絶望」に変わることだけは何としてでも避けなければならない。何故なら、その患者は、すい臓がんと壮絶な闘い方をした大切な自分の家族を、この目で見ているのだから。
「早期発見」を「希望」や「勇気」に変えるためには、さらなる医療関係者の努力、そして机上だけではない丁寧な心あるカウンセリングの準備が必要だと考える。
また、ドラッグラグ解消に向けては、私なりの署名活動は続けていきたい。これは時間が重要になる。何故なら、本当に驚くほどにすい臓がんの進行は早いから。癌患者とその家族にとって、時間はとても大切なものだ。
すい臓がんは治る。治療可能ながんになる。いや、する。